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免許証の思い出 第1話 [黒い玉手箱 愛知]

タイトル:プー太の父の怒り[exclamation×2]                                          

前回記事にしました自転車旅行のすぐあと1968年(昭和43年秋)
自転車旅行のこととは反対に覚えてることが多いので
今回はクルマの免許を取った時の思い出話を書いてみます。

自転車旅行のすぐあと、たしか9月だったと思います。

友人の中にオートバイ好きなのがいて
時々うしろに乗せて
もらってましたが、そのうちに自分も
オートバイを運転して
みたくなって、自動車学校に行くことになりました。

通い始めて1~2日にそのオートバイ好きが

なにも自動二輪の免許なんて取らなくても、そのうちにみんな                       

クルマを持つようになったらお前もクルマが欲しくなるんだから                    

そんなヒマがあるならクルマの免許を取ったほうがいいだろう

オートバイ好きの予想外の言葉に、素直?な私はすぐに方針転換
自動二輪はすぐに諦めてクルマの免許を取ることにしました。                      

(もちろん払ったお金何万かは戻ってこなかったと思います)

こうしてクルマの免許を取るために
残暑きびしい中ま、た同じ自動車学校に通います。

さていよいよ教習が始まると
私の担当の先生は
いつも文句ばかり言ってました。

まあ自動車学校の先生は
こんなもんだろうと思っていましたが、
だんだんひどくなってきます。
いつも文句ばかり言われていい加減腹が立ってるところに                        

何をトロトロしてるんだと」というようなことを言われて

今までハイハイと我慢してきた温厚な?私もついに限界怒り爆発[exclamation]

「慎重に走ってるのにトロトロとはなんだ~[ちっ(怒った顔)]とばかり

グイッと右足に力をいっぱい入れてアクセルを踏んだのです。

自動車学校の中の練習コースですが急にスピードが出ました。                                  助手席で威張ってる先生がビックリして急ブレーキを踏んで                             

クルマを止めてから私に「何をするんだ~」と怒鳴りました。

私は心の中で
普通に走ってればトロトロするなと文句タラタラ

それじゃあ先生のご希望通りキビキビ走ってやろうかと思って

ちょっとスピードを出せばビックリするし、どうすりゃいいんだ

と、ひらき直っています。

この話の続きはまた次回にしますが、そんなことして

「プー太の父さん、仕返しされて免許なんて取れないんでないの」

なんて思うでしょうね。

 結末は次回のお楽しみに!また続きもぜひ読んでください


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免許証の思い出 第2話 [黒い玉手箱 愛知]

途中で川口の話などが入ったので
遅れてしまいましたが,今日は前回の続きを書きます。

文句ばかり言ってる自動車学校の先生に私はついに怒りが爆発[ちっ(怒った顔)]                           右足に力を込めてアクセルをぐぃっと踏んだら急にスピードが出ました。
先生はびっくりして急ブレーキを踏んで
クルマを止めて「何をするんだー」と怒鳴ったのです。

この話はこれからが面白くなりそうなのですが、しかし意外にもその先生
それからは
まったく文句も言わないで静かになってしまいました。

文句さえ言われなければこっちも運転しやすいので
その後は運転も順調になって、そして路上教習も無事に終えて最後の日。

私は「お世話になりました」と型通りの挨拶を
先生は試験は大丈夫だと思うけど一回くらい補習受けておけよ

そんなもの受けなくてもと思いましたが,先生との交際費だと思って
一度だけ補習を受けてから名古屋で試験を受けました。

こうして名古屋で取った愛知県公安委員会と書いてある
思い出の免許証を、北海道に帰ってからも大事にしてたのですが
ある日警察の検問があったときに

その警官が「免許証の更新日がとっくに過ぎてますよー

そんなことで再交付してもらった免許証から、愛知県の文字が
消えて
北見になってしまいましたが、あのときは本当にがっかりしました。

右の写真が現在の免許証です22.jpg

顔写真の下の○○○のところに

愛知知県と書いてあったのですが

再交付のとき北見になりました。

いま思いだしてみると,なんで急に先生が静かになったのか

[1]自分の指導が間違ってたと気がついて反省した

[2]またやられたら困るから

どう考えてもこのどちらかしかないのです。

ついでに余談になります

仕事には必要はなかったのですが,北見に来てから大型免許を取ったのです。

その時の先生はすごくおおらかな人で路上教習のとき
ちょっと横向いて先生の顔を見たら,気持ち良さそうに居眠りをしていました。

                                       


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暑かった豊田市 [黒い玉手箱 愛知]

今日から2~3回、豊田市やトヨタ自動車工場の昔話をしたいと思います。

その当時の豊田市、人は男性の若者が多くクルマもたくさん
走っていましたが工場の街の雰囲気が強く、田舎者の私が
言うのも可笑しいのですが、なんとなく田舎くさい街でした。

私にとっての豊田市は働いて食べて寝るところ・・・
そんな程度しか思いつかなくて、思い出に残ったのは
豊田市を拠点にしてあちこち走り回った先のことばかりです。

そんなことなので昔話は
豊田市の記事を書くのが後になってしまいました。

豊田市の駅前大通りを写したカラー写真
すっかり色あせていますが、駅前の大通りで七夕の頃かと思います。
 
この近くにあった中華料理のレストランで
たまぁに少しだけ贅沢な食事を楽しんだことは覚えています。

当時の駅前大通り

img001.jpg 

商店街に入ると、どこを歩いても細くてカーブした道が多く
郊外も街の中も直線道路ばかりの北海道から出て行った私には
珍しい街の様子で、城下町のような雰囲気でした。

思い出と言ったらとにかく暑かったことばかり

真夏でも海からの冷たい風が吹く日は
夕方からストーブを点けるくらい涼しい故郷から
出て行った私には、豊田市の湿度の高い夏は強烈なものでした。

九州や沖縄から来ていた人達も
豊田市のほうが湿度が高くて暑いと言ってたのです。

あの頃、トヨタの工場の中は業務用の大きな扇風機をあちこちに
置いていましたが、真夏の暑いときに私はよく
扇風機のスィッチを切って仕事をしていました。
工場の中の空気が暑くなってるので
扇風機を回すと熱風になって襲ってくる感じなんです。

ネットで最近の豊田市の気温を調べてみたら
35度~37度くらいの日が結構あるので、当時もそのくらい暑かったのか
工場の中は窓や大きな扉は全開でしたが、機械の熱や窓から日が
差したりするのでかなり高温になっていたと思います。

水ばかり飲んで塩分不足に
なるのを防ぐために塩を置いてた職場もありました。

元気だった私も3年目の真夏が終る頃ついにダウン。

ただの夏風邪だろうと思ってトヨタ病院[病院]に行ったら
急性腎炎なのですぐ入院しなさいということで
人生ただ一度の入院(2週間ほど)も経験しました。

しかし体調も良くなるとまた元気に走り回ります。

 

 


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トヨタのうなぎ [黒い玉手箱 愛知]

今日から楽しみの9連休に入りました~

連休に入ったら冬タイヤを夏タイヤに替えて
冬物をクリーニングに出して、にころ山にも登って
プー太とたくさん散歩して・・・などなど考えていました。

しかし雪が降り積もってしまい
おまけにしばらく天気も悪そうなんですよ。

少しは予想していたことですが、まったくがっかりしました[ちっ(怒った顔)]

P4280173.JPG

そんなわけで連休初日は特別な話題もなかったので
この前の昔話・トヨタ自動車の思い出の続きを少しお話することにします。


トヨタでの食事の思い出話

画像はネットから借用

まず一番の違いは味噌汁でした。

白味噌の味噌汁ばかりで育った私が
愛知県に行ったら、寮の食事はもちろん街の食堂も
みんな赤い(濃い茶色)の味噌汁なんです。

初めの頃はなかなか好きになれなかったのですが
そのうちに慣れてきたら美味しく感じるようになってきました。

たまたま街の食堂で
白味噌の味噌汁を出してくれるところを見つけたので
白い味噌汁が恋しくなったときは、よくその食堂にも行ったものです。

工場や寮の食事はすごく安く1食30円とか70円くらいだったと思いますが
寮の食堂では食事の他に、うどんや生卵と牛乳が安い値段で置いてありました。

食事はあまり美味いものが出ないしP1110499_m.jpg

おかずの量も少ないので

朝の食事で生卵を1個、夕食のときは2個と

毎日のように生卵を3個も食べていました

工場での昼食のときは卵が売ってなかったのですが
もしも工場の食堂でも生卵が売っていたら
1日に4個も食べていたかもしれません。

そして牛乳は食事のたびに1本ずつ、毎日3本ずつ飲むことがほとんどでした

食事は美味いものがあまりなかった記憶ですが

かけうどん

北海道のうどんのように醤油たっぷりではないのに味が良くて
これが関西風のうどんなのかと喜んで食べていました。

こんなことで少し物足りない寮や工場の食事ではありましたが
みんなバリバリ仕事をしていたところを見ると
ちゃんと栄養は考えてくれていたのだと思います。

しかし或る日の食事にビックリ[exclamation×2]01.jpg

入社した年の夏だったと思いますが

なんとウナギが出たんです。

この写真の半分くらいの量かなと思います。

あのときは何かの記念だったのかもしれませんが
工場の昼食だと4万食以上
寮の食事で寮生だけが食べたとしてもすごい数だったでしょう。

うなぎなんて食べたことがなくて、このときが初めてでしたが
そのウナギの美味かったことが忘れられなくて、その数年後に
北見に住むようになってからも何度かウナギを食べたのですが
トヨタで食べたウナギほど美味いウナギはありませんでした。

 


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お化けがキャー! [黒い玉手箱 愛知]

黒い玉手箱(愛知県在住の昭和43年から昭和48年の思い出話)

みなさんは、この世に幽霊やお化けが存在すると思いますか[exclamation&question]04.jpg

たぶんそんなものいるわけがない、いたら会ってみたいもんだ

 

きっとそう言われるでしょう。
でもこの思い出話を読んだ後、みなさんの考えは180度変わるのです。

)幽霊やお化けに弱い方は夜に読まないでください。

 

今から43年ほど前、私が20歳の頃

猛暑も過ぎ秋がきて、やがて晩秋にさしかかるころ
私の元に大学(女子大)祭があるからぜひ来てみませんかと
誘いがありましたが、
女子大なんて行きたいと思っても行ける
ところではないので、もちろん私は喜んで行くことにします。

待ちに待ったその日、大学の所在地愛知県の犬山市に向かいました。

大学の玄関前で誘ってくれた方が待っててくれて
憧れの女子大の中をあちこち案内をしてくれます。

ここまでは何事もなく楽しく過ぎましたが

こんな涼しい季節になぜかお化け屋敷があったのです。

気の弱い私は、お化けなんか見たくなかったのですが
せっかく案内してくれるのにと思って渋々一緒に入りました。

お化け屋敷の中はグリーンやブルーの照明
気味の悪い笛や太鼓の音も聞こえてきます。

とても女子大生が作ったとは思われない怖~い雰囲気がたっぷり。

そしてあちこちからお化けが出てきますが、男の私が
キャーなんて声を出すわけにいかないので、ぐっと耐えて歩いていると[がく~(落胆した顔)]

私の顔の前にヌーっと不気味な手が現れました

01.jpg

ワーっ[exclamation]と大声を出したいところですが
周りはみんな女の子、どうせお化けも女の子。

イタズラ好きな私は「女のくせに男を驚かすとはなんだ~」とばかり
お化けの手を握ってしまったのです。

これにはお化けもびっくり、きゃ~~~ぁぁぁ[exclamation×2]

お・し・ま・い

 

うです?すごーく怖かったでしょう

今夜は眠れそうもないとう方はお酒でも飲んで寝てくださいね~[わーい(嬉しい顔)]

ちょっとしたイタズラ心だったのですが、お化けは私の予想以上に
ビックリしてしまって少し度が過ぎたかなと反省をしたのでした。

あと書き

犬山市といえば、明治村と国宝犬山城を絶対に忘れてはいけませんね。

またその1~2年後に一度だけ訪れたことがあったのですが

とても見応えのあった明治村、そして古い歴史を感じる名城・犬山城など
愛知県犬山市はとても素晴らしいところでした。

 


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ルポライター鎌田さん [黒い玉手箱 愛知]

今日の昔話はトヨタ時代の驚き[exclamation]の思い出

私がトヨタ自動車を退社して間もなく、一冊の本に出合いました。

本の題名は自動車絶望工場

少し読んでみると、なんと私が所属していた本社工場機械部の話題。

そしてもう少し読んでみてびっくりしました~[exclamation×2]

私の働いていた隣の組の、知っている仲間の名前が何人か実名で
そしてエピソードなどもいっしょに書かれていたのです。

この本を書いたルポライターは鎌田慧(さとし)さん

 

今はNHKテレビや新聞に登場するほど有名な
ルポライターですが、当時私のすぐ近くにルポライターが
季節工として入り込んでいたとは・・・本当に驚きました。

入社したとき私は鎌田さんとは隣の組だったので
直接鎌田さんと会話したこともなかったのですが
あのとき自分の周りに季節工は一人しかいなかったし
作業帽子で区別されていたので
あぁ鎌田さんってあの人だったんだ~」とすぐに思いだしました。

鎌田さんを見たのはトヨタに入社した年で、その後私も鎌田さんのいた組に
異動になったのですが、その時にはもう鎌田さんは退社していたようです。

びっくりするやら、嬉しいやら懐かしいやらで
私はすぐに鎌田さんに手紙を出したのですが、すぐに返事をいただきました。
しかしその大切な手紙がどこへ行ったのか、紛失してしまったのです[ふらふら]



トヨタ自動車工場の本ですが、自動車絶望工場なんてすごい題名です。

でも

鎌田さんはルポライター、私は希望に燃えた?社会人一年生

働く目的も違っていました。

けして楽な仕事ではなかったかもしれませんが
あのときトヨタ自動車を絶望工場なんて思ったこともなく
こうして楽しかったあの頃を懐かしく思い出しています。


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古い扇風機 [黒い玉手箱 愛知]

黒い玉手箱(愛知県在住時代の思い出)

ブーンパタパタパタ・ブーンパタパタパタ

どこか優しく懐かしい音を聞くと、あの暑かった愛知県の夏を思いだします。

トヨタの寮に住んでいたとき、私の部屋は鉄筋コンクリートの
4階だったので、メチャクチャ暑いとも思わなかったのですが
2年ほどすると周りにもちらほらアパート住まいする人が出てきます。

私も自分の城が欲しくなってしまい
寮を出てアパートを借りることにしました。

城と言っても4畳半の小さな部屋なのですが、城は城です。

このアパート、冬は良かったのですが夏が暑くて暑くて
平屋で屋根はトタン、太陽の熱をいっぱい吸収するせいか
部屋の中もすごく暑くなってしまうのです。

その寝苦しい夜をどう過ごしたか

寝る前にタオルを持って共同洗面所兼、台所兼、炊事場に行って
水をたっぷりタオルに含ませて軽く絞ります。

北海道と違って、いくら水を出しても
ぬるま湯のような水しか出てきませんが、たっぷり水分を含んだタオルを
部屋に持って帰り、パンツ1枚になって布団の上にあお向けになります。

もちろん窓は開けて網戸ですが
風なんてまったくないし、外は夜も暑いので
窓を開けても閉めてもあまり変わらないような感じでした。

 

そして濡れたタオルを腹の上にのっけて1.jpg

扇風機を回してそのまま朝まで眠るのです。

夏は毎日のようにこんな恰好で寝ていましたが

北海道でこんなことしたら
夜中に冷えて、一晩で腹を壊してしまうでしょう。

そのときの扇風機の音が、ブーンパタパタパタって
まるで子守唄のような優しい音に聞こえたのです。

やがてトヨタを退社して北海道に帰るとき、ステレオや
買ってほとんど使ってない百科事典などは、質屋さんで処分したのですが
暑い夜を共にした扇風機を愛知県に置いて帰るのは寂しい話。
まだまだ頑張ってもらわなくちゃと思い、北海道に持って帰ることにしました。

 

 1973年(昭和48年)7月29日2.jpg

トヨタを退社して

北海道に帰る途中

栃木県塩谷郡藤原町

民宿「男鹿荘」にて

ルーフキャリアの上の

段ボール箱に

扇風機が入っています。

 

そんなことで北海道に帰ってからも、年に何回か
あの暑いアパートの夜を思いだしながら使用していたのですが

5~6年前、サンヨーの古い扇風機で発火する事故が続いて
使用するのは止めて下さいという記事を新聞の広告で見たのです。

私の大切にしていた扇風機も、ちょうどその製造の年に該当してしまい
とうとう使用を諦めることになってしまいました。

後日、ゴミ処理場に捨ててくることになりましたが
私にとってはトヨタ時代から使っていた思い出のもの

ただの電器製品とは思われず
長い間頑張ってくれてありがとう感謝の気持ちを込めて置いてきたのです

 

あと書き

その後買った扇風機の音を聞いていたら
あの4畳半で使っていた、古い扇風機を思いだしてしまいました。

何か一つだけでもトヨタ時代の思い出のものを
とっておくつもりで大切にしていた扇風機だったのです。

扇風機を積んだ私のスプリンターの写真の風景ですが

1973年7月末、トヨタを退社して愛知県豊田市を出発、長野県に2泊

妻籠、馬籠、上高地、松本城、黒四ダムなどをゆっくり見てから

群馬県渋川市を通過して日光を見物

それから福島県の猪苗代湖を見たいと思って
会津若松に向かう途中の山の中の民宿でした。

 

 


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トヨタの社長 [黒い玉手箱 愛知]

黒い玉手箱(愛知県在住時代の昔話)

夜勤の仕事を終えたある日の朝、いつものように愛車で
本社から近いところに建っていた私のアパートに帰る途中

アパートが近くなった頃、向こうから歩いてくる人がいました。

いつもなら歩いてる人なんて気にすることもないのですが
スーツを着てネクタイを締めて歩く姿は

ただのサラリーマンやビジネスマンとは思えない雰囲気が漂います。

一目見ただけで、とても茶畑もあるような
私や庶民が住む住宅街には似合わない人に見えました。


そしてその人が目の前に近づいてきたので顔を見て驚きました。

私の勤務するトヨタの社長だったのです

トヨタの社長なんていったら私たち従業員にとっても雲の上の人
あとにも先にも社長を見たのはその一度だけでしたが

私が愛知県時代5年3カ月の間、お世話になったトヨタ自動車の社長
あれから40年以上も経つのに、まさか健在だったなんて本当に驚きました。

先日100歳で亡くなられた豊田英二元社長の思い出でした。

 

あと書き

当時私が住んでいたアパートから、そんなに遠くないところに
トヨタの社長の住宅があるという話は聞いて知っていましたが

いくら本社から近い所に住んでるとはいえ、私でさえクルマで通勤
していたのだから、社長が歩いて本社に行くなんて不思議に思ったものです。
背は低い感じでしたがやはりトヨタの社長、すごい風格がありました。

100歳まで生きてこられて
こうして私のトヨタ在籍時代の昔話に登場してもらえて感謝します



 


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バンドデビュー [黒い玉手箱 愛知]

1968年
トヨタに入社して1カ月か2カ月、私がまだ18歳のとき

独身寮の夕食が終る頃
どこからかギターやドラムの音が聞こえてくるようになりました。

私も高校時代に少しやったことがあったので
興味が湧いてきて或る日の夜、音の聞こえる方に行ってみたのですが
音は寮の集会場の中とわかったので、ついでに覗いてみることにしました。


集会場の中に入ると
ちょうどギターが一人足りないので
仲間に入ってくれないかと
誘われてしまいます。

私もサイドギターくらいならいつでもOKということで
即仲間に入れてもらうことになりました。

リーダーでボーカルの先輩が22~23歳くらいで鳥取県出身
あとは私と同じ新入社員だったと思いますが、大阪、熊本、鹿児島
そして私が北海道と、全国から人が集まるトヨタらしいメンバーの顔ぶれです。

ときどきみんな集まって何回か練習したころ
いよいよデビューが決まりました。

[イベント]会場は寮の食堂です。


寮の夕食時間も終わったころライブが始まります。
寮と言っても鉄筋4階建の大きな建物が何棟もある
マンモス団地のような寮なので、大勢の寮生が集まってくれました。

私はサイドギター担当だったのですが、1曲くらい私にも
リードギターをやらせてくださいと事前にお願いしていたのです。

そのとき私の弾いた曲はベンチャーズのクルーエルシー

 

 

演奏後、この日一番の大きな拍手を浴びたのでした。

(ここはちょっと記憶違いかもしれませんね~[わーい(嬉しい顔)]

その後ユニフォームを作ることになりました

上は忘れましたが
下はサイドに黄色のストライプが入ったピンクのズボン。
ちょっと紫がかったようなピンクでしたが、私はこんな派手で
趣味の悪いユニフォームなんか着たくないと思っていました。

そんな派手なピンクは
鳥取出身のリーダーの好みだったのでしょう。

しかしそれからは私を始め、他の新入社員メンバーも
夜勤だ遅番だと、本格的に交代勤務が始まって
練習にもなかなか全員集まることが出来なくなってしまいます。

やがてバンドは一度もユニフォームを
着ることもなく、自然に消滅してしまったのでした。

 



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小さなスナック [黒い玉手箱 愛知]

愛知県在住時代の昔話

私が高校を卒業する年、今から45年~46年前の1968年3月
賑やかだったグループサウンズも下火になる頃、こんな曲がヒットしました

甘くせつないロマンチックないい曲でしたので
60代70代の方はこの曲を聴くと、あの頃に好きだったあの人のこと
またあの頃愛したあの人のことなんか思い出すのではないかと思います。

私だって、そんなロマンチックな話の一つや二つはあったのです。

この曲を聴くと思い出しますね~[黒ハート]

 

そういうことで今回は名曲小さなスナックの思い出話

 

トヨタに入社して間もなく、同部屋の仲間で遊び好きのW君の誘いで
時々飲みに出かけるようになって、スナックめぐりが始まりました。

あの頃トヨタの周辺には、小さなスナックがたくさんあったのですが
飲みに行くと、よく「お客さんは関東の人?」とか「東京の人?
なんて
ホステスさんに言われたものです。

(注)これは言葉の問題ばかりでなく、その当時の
若かった私がどこかアカぬけして見えたのかもしれません
[わーい(嬉しい顔)]

 

 北海道は道南を除いたらほとんどなまりもないのですが
全国各地の言葉が入り混じっていたトヨタの周辺のスナックの
ホステスさんは、なまりのないのは関東人と思い込んでいたようです。

「お客さんは東京の人?」なんて言われると内心嬉しいのですが
そんなときはぐっと腹に力を入れて、高倉健のようにニヒルで低い声で

アナタ、お若いのに見る目がありますね

な~んて

18歳で童顔の私が、母親かと思うくらいのホステスさんに
言うもんだから「ギャハハハハーー[exclamation×2]

入れ歯が飛んでくるんでないかと思うくらいの大笑い。

そのあとは北海道の自慢話をたくさんしてあげましたが
小さなスナックのホステスさん達は
北海道の話を喜んで聞いてくれたものでした。

 

アララ[exclamation&question]

ちょっと記憶の整理箱を開け間違ったようで
ロマンチックでないほうの
小さなスナックの思い出話をしてしまいました。[わーい(嬉しい顔)]


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なんでもナンバーワン [黒い玉手箱 愛知]

 

今から42年ほど前の話
(愛知県豊田市在住時代の思い出)


ソチオリンピックも無事に終わりましたが
1972年札幌の冬季オリンピックを思い出してしまいました。

工場の昼休み、食堂でみんなと食事をしているとテレビは大騒ぎ。

なんと70メートル級(現在のノーマルヒル)で
日の丸飛行隊が金銀銅メダルを独占してしまったのです。

結局、札幌オリンピックでの日本のメダルはこの
3個だけだったのですがメダル独占なんて快挙、大勢の人でいっぱいの
食堂の中、みんな食事をしながらテレビに見入っていたものです。

 

 

この札幌オリンピックの2~3か月前

食事を終えて休憩していると、広報部の人が私を訪ねてきました。

何の話かと思ったら、毎月発行しているトヨタ新聞の正月号に
トヨタ何でもナンバーワン」というコーナーを企画したというのです。

何万人もいるトヨタの従業員の中で、自分が特別一番に
なるものもないハズなのですが、たった一つだけあったのでした。

それは日本の一番北から来たトヨタマン



トヨタ新聞1972年正月号(なんでもナンバーワン)

3中.jpg


 


 

5 - コピー.pngブログを始めて間もなく記事ネタに困ったころ
古い写真を公開していたブログを拝見したのがヒントになって
自分も1年半に渡ってトヨタ時代の思い出話を書いてきました。

まだまだ今まで書いてきた何倍もの思い出があるのですが
記事にするのも大変なくらい記憶も薄れてきたので
そろそろ、このへんで終わりにしたいと思います。

次回(いつになるか分かりませんが)の最終回は、5年3カ月を過ごした
トヨタを退社して北海道に帰るとき、このドライブを楽しもうと北海道の
故郷から、わざわざ豊田市に来た父との旅の様子をお話したいと思います。

 

 


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熱狂的だった中日ファン [黒い玉手箱 愛知]

子供のころは、ラジオを入れると巨人軍の試合ばかりでした。

それで大勢の道産子は、嫌でも巨人ファンになってしまうのですが
野球中継を聴いているとき、長島選手が打席に入ると
アナウンサーや観客が異様に盛り上がります。

当然のように、自分も長島選手のファンになってしまいました。

王選手もすごかったのですが、好きなのはやっぱり長島選手です。


もう愛知県時代の古い話も終了と思ったのですが
1枚の写真から、またいろいろ思い出してしまいました。
みなさん読んでくださいね~[目]

 


 

黒い玉手箱(愛知県在住時代の思い出話)

今から46年前の1968年

トヨタに入社して間もないころ
従業員は全国から人が集まっていましたが
地元三河地方や名古屋の方も多数働いていました。

あるとき野球の話になってしまって
私が巨人ファンだと言ったら、地元のだいぶ年上の先輩たちが

何が巨人だ東京だ、日本の中心は愛知県だ三河なんだ[exclamation]

まったく野球の話どころか歴史の話になってしまいます。
巨人も嫌いだけど、東京も嫌いだと言わんばかりで

最後には三河地方の自慢話になってしまうのでしたが
よく聞いていると
なるほどその通りかもしれないな、説得力もあって
三河の国を誇りに思っている気持ちが伝わってくるのです。

あのころは、プロ野球の中でも中日ファンが一番熱狂的で
球場でのマナーも悪いことは印象にあったのですが
私が巨人を応援する気持ちの何倍も
中日を応援している気持ちが分かってきました。

それ以来、職場でプロ野球のことは
なるべく
口に出さないようにしたものですが、若い人たちは
そんなにひどい熱狂的なこともなかったと思います。


一年先輩で名古屋出身の鈴木さんという方がいました。


トヨタ本社前で鈴木さんと(1971年)

img002 - コピー - コピー.jpg 

鈴木さんはもちろん中日ドラゴンズの大ファンですが
あるとき「一緒に野球を観に行こうと私を誘ってくれました。

初めてみるプロ野球は中日球場で巨人対中日
鈴木さんが、私のために巨人側の外野席に案内してくれて
中日球場の外野の巨人応援席だったのですが
敵味方なく二人で仲良く試合を楽しんできました。


このころは、後にテレビでタレントとして活躍した
巨人キラーの坂東英二さんが、中日ドラゴンズを引退した後で

楽天の監督として昨年日本一になった
星野さんがドラゴンズに入団した年が1969年

テレビで野球観戦していると
星野投手の巨人と対戦するときのファイトはすごかったものです
特に長島選手と王選手が打席に入ったときは
燃える男そのもので、まるでケンカ腰に見えた形相でした。

そしてドラゴンズの主砲として活躍した
大島康徳選手も星野投手と同じ1969年に入団しましたが
あれ以来、プロ野球を観戦したことがないので
これが最初で最後のプロ野球観戦になったのです。


さてさてこの鈴木先輩

パチンコの本場といわれた
名古屋の方だけあってパチンコが上手で
あるとき私に「本場のパチンコに行ってみよう
なんて、パチンコにも一度誘ってくれました。

鈴木さんの実家にもお邪魔したり
パチンコをして楽しんだり名古屋での思い出に残っています。

 

パチンコは、もちろん大勝利でした
本場名古屋の鈴木先輩お勧め台でやったのですから
[わーい(嬉しい顔)]

 

 


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